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​どうしてこの方針に?

​さんさんぽの方針がここに至ったわけを、

3つの視点からお話します。​

​

1.森のようちえんピッコロとの出会い

2.時代の流れから未来を読み解く

​3.保育探求の行き着いた先

ピッコロとの出会い

1.森の『ピッコロ』ようちえん

  との出会い

さんさんぽの方針は、山梨県にある

『森のピッコロようちえん』さんの保育に学び、

実践と振り返り、学びを繰り返す中で

みえてきた世界観から描きました。

​

様々な大人の世界の概念と1つ1つ向き合い、

子どもと自分自身に向き合えば向き合うほどに。

深めれば深めるほど、

 

子どもたちの動きや表情、

言葉が変わってきました。

「戻ってきた」という表現の方が

しっくりくるかもしれません。

​

​以下は、保育を変えることで変化し、

みえてきた子どもたちの姿です。

山梨の、森のピッコロようちえんの園庭写真です

森のピッコロようちえん

さんさんぽの保育方針の元になった、子どもたちの姿

みえてきた子どもたちの姿

子どもたちは保育を積み重ねるごとに

自分で考え、動きだし、

子どもたちに任せれば任せるほどに

”何か”が変わってきました。

​

人は本来、自分で考え、自分で動き、

自分たちで乗り越えたい。誰かを助けたい、

誰かに気持ちを送りたいたいものなんだなと、

子どもたちをみていて思うようになりました。

​

よろしければ、

子どもたちのエピソードを読んでみてください。

​

「大人の役割とはなにか?」

​考えさせられる日々です。

​

すべての人が、

自分らしく生きられる世界を夢見て。

日々、子どもたちと向き合っていきます。​

女の子がつつじの花を保育者に見せてくれているところ

誰かが悲しいとき、そっと花をプレゼントしたりすることも

(この写真は別の時です)

未来を読み解く

2.時代の流れから
   未来を読み解く

世界はまさに今、大きく変わろうとしています。

 

保育についても、

”どんな未来がくるか”を想定して考えることは、

大切なことだと思うのです。

過去・これまでの時代を考える

これまでの時代を振り返ると、

戦後の産業革命を経て、

人々の生活は表面上豊かになりました。

​

正確に表現すると、豊か、ではなく

”便利になった”と言えます。

例えば、

冷蔵庫、洗濯機、テレビなどが挙げられます。

​

人の”心”はどうでしょうか。

 

生活が便利になったからといって、

幸せ度はどうでしょうか。

ストレスや自殺率、

生活習慣病は増加の一途です。

​

なぜ、そうなったのか?

​

これは、とても大切な問いです。

​

図は、一つの過去イメージに過ぎません。

あなたにとっての答えは、

あなたの中にのみ存在します。

​ぜひ、その答えを探してみてください。

さんさんぽの保育を、過去から現在までの時代の流れで考えたときの図

過去~現在のイメージ

​いま・これからの時代とは?

世界は今、様々な課題を抱えています。

 

・AIの導入  ・リモート化  

・資本主義経済の崩壊の可能性

・教育、福祉改革  ・エネルギーの枯渇  

・依存型社会の限界  ・情報過多社会  

・自然との乖離  ・思考力(考える力)の喪失

・イデオロギー、プロパガンダ  

・格差社会  ​・食料問題

・精神的、身体的不健康  ​・職業の変化

​

一方で、支配の時代は終わりを迎え、

権力・抑圧・制限といったシガラミの力からの

解放を望む人々が増えてきた感覚があります。

​

自然界を見る限り、何事も、

1つの場にとどまることなく流れうつろい、

大地も川も空気も、変化し続けています。

​

人も、例外ではありません。

​

わたしとは、何者か。人間とは何か。

幸せとはなにか。

​

​1つ1つ、

いままで当たり前と思っていたことについて

深く考える時代に変遷しつつあると考えます。

​

さんさんぽの保育を、現在から未来までの時代の流れで考えたときの図

現在~近未来のイメージ

​さらに先の未来を、考えてみる。

では、その先に人々はどんな時代を想い描くのか。

​さんさんぽは、ここをみていきたいと考えて方針を描いています。

さんさんぽの保育を、未来やさらに先までの視野で考えたときの図

より人が人らしく、

悦びや幸せを抱いて生きている時代とは。

​

このイメージは、

子どもたちの実際の姿を元に描きました。

​

あらゆる概念や制限をこえて。

言語、形、五感、時間、空間すら超えて、

わたしという意識とは一体なにか。

​

子どもたちの感覚には、到達点がありません。

少なくとも、

子どもたちの世界を知れば知るほど、

それらは”無限である”と

伝えてくれるかのような感覚になります。

​

すべての概念や制限を超えて。

”わたし”という、

宇宙の中のただ1つのいのちとして。

​

これまで私たち大人にできなかったことを、

子どもたちの感覚に委ねて描いていきたい。

そこに、何か大切なものがあると​信じています。

​

​もちろん、これから先も子どもたちは、

時と共に変化し続けることでしょう。

​さんさんぽも、変化し続けたいと考えています。

未来のイメージ

保育探求の行き着いた先

3.保育探求の行き着いた先

”自然にたくさん触れる”から
    純粋に育つ、ではない。

これまで、数々の保育現場をみてきました。

『子どもは自然にたくさん触れていれば、

 純粋で感性豊かに育つだろう』

そう思っていた時期もありました。

 

ところが、事実はそうではないようです。

 

戦争を見たいという子。

お金をよこせという子。

小さい子に力を振るう子。

自分の気持ちを表現できない子。

悲しみを爆発させる子。

 

毎日自然に触れていても、

そういう育ちもあるようです。

 

小学一年生の学童保育で、保育園に

初めて来たときに聞いた言葉はこうでした。

 

「ねぇ、どうやってあそべばいいの?」

「ねぇ、やっていい?」

 

子どもたちの育ちに

最も影響を与える要因は何なのか?

あなたはどう思われますか。

「パン屋さんにいきたいから帰りたい」と言う男の子に寄り添う保育者

自転車だって、よき先生。心がゆれた出来事

考え、想い、動きたい子どもたち。

この保育を実践しはじめてから、

こんなことが起こりはじめました。

  〜 水筒を取りにいく子 〜

 

2歳から年中さんまで十数名の子と

広めの公園で過ごしていたときのことです。

 

そろそろ帰る時となり、

集まって本を読もうとしていました。

最後に集まってきた2歳の子。見ると、

園から持ってきたはずの水筒を持っていません。

どうやら大型遊具の中に置き忘れているようです。

​

「あら、○○水筒は?」と声をかけてみました。

すると、3歳の子が

「あそこにあった!」「みた!」とのこと。

「あ、あったの?」と言うと、

すぐにダーッと、その子が走り出しました。

水筒まで、山有り谷有りで200メートルくらい。

結局、走って持ってきました。

    〜 帽子を配る子 〜

​

みんなが帽子を置き忘れていることに気がついた子が、

一人ひとりに配り始めたことがありました。

なかなか本人がみつからないし、

みつかっても受け取ってくれなかったりするのです。

で、困ってる姿をみて別の子が助けたりしていました。

​

「どうして配ってるの?」と聞くと、

「だって、無くなったら○○ちゃんが困るから」

と、配ってる理由が本人なりにあるのです。

​

結局その子は最後まで諦めず、

全員に配りきったのでした。

​

こういうことが

本当によく起こるようになりました。

どちらのケースも、大人の意図ではなく

子どもたちが自らの意思で動いていました。

誰の評価も求めていません。

​

水筒や帽子を運ぶ子がいい子、

というわけではありません。

水筒や帽子を忘れる子が悪い子、

ではありません。

子どもたちは、ある意味みんないい子です。

​

ただ、

これまで普通に保育をしていて、

こんなふうに人のために自ら動く子を

見たことがありませんでした。

忘れていることにすら気づいていないか、

気づいていても全く動かない、

ということがほとんどでした。

​

さんさんぽの保育では、

叱ったり褒めたりして

子どもたちを動かしません。

 

「無くなったらどうするの!?」とも叱らないし、

とってきてくれた子に

「すごいね!」と褒めたりもしません。

なので、褒められたいがために

取ってきたわけではありませんでした。

「取っておいで」と指示もしていません。

​

「水筒忘れちゃだめでしょ!」と怒られて動く子。  

「すごいね!」と言われたくて動く子。

「水筒取っておいで」と言われて動く子。      

「水筒取っておいで」と言われても動かない子。   

「水筒は?」と言われて気がついて動く子。     

「水筒は?」と言われて気がついても動かない子。

​大人に「とってきて」と言う子。

何も言われなくても、

誰かが忘れていることに気がついて自ら動く子。

気がつくけど、動かない子。  

気がつき、“本人のために、あえて”動かない子。

​

どこでもいいのですが、

​

子どもたちがどこにいて、

大人がどこにいるのか。どこをみているのか。

これを考えることは大事だなと思います。

こどもたちが滑り台の手摺に水筒をかけたところ

水筒をめぐっていろんなことが起こります

子どもたちをどうこうしない保育

なぜ今の社会は、子どもたちに対して

何かを教えようとするのでしょうか。

「早くできるように」と望むのでしょうか。

子どもは果たして、本当に未熟でしょうか。

​

もし、

これまでの教育が正しかったとするなら。

合っていたとするなら。

貧困、格差、差別、争い。

これらはもう無くなっていたはずです。

​

この保育に出会い、実践を繰り返すほどに

分かってきたことがあります。

子どもたちはありのままで素晴らしい

ということです。

​

生まれたときからよく分かっていて、

よく見てよく聴いてよく知っていて、

考える力があり、人を想う心があり、

大人や世の中のことを信じている。

子どもたちは、自ら育とうとする力がある。

​

​

大人はまず、

子どもたちをどうこうしようとすることを手放す。

​その際に湧き出る感情を十分に味わう。

​

その上で、本当に大切なことは何なのか。

そのために何をして、何をしないのか。

それにより何が育ち、何が育たなくなるのか。

​ここにたどり着きました。

徳生公園にて、雨の日、年長児が水たまりをかけまわっているところ

激しい雨だって、見方をかえれば唯一無二の楽しみに。

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